
合気道開祖「植芝盛平」
合気道の開祖である植芝盛平
日本国内ではおなじみの武道である「合気道」ですが、その開祖であったのが植芝盛平という人物です。
武道ということでいえば柔道や剣道の方が歴史も深く競技人口も多いことから知名度が高くなっていますが、この合気道はそうした武術とはやや趣が異なっていて、少ない力で相手を投げ飛ばすことができるという不思議な技がたくさんあります。
合気道という武術が誕生したのは比較的新しく大正時代のことで、諸説はあるもののもともとは大東流という柔術の一派から派生したものとされています。
なおこの「大東流」は今も古武術の一つとしてそれそのものとして現在も伝え行われています。
当初は大東流合気柔術という名称で武術の一つとして広く行われてきたのですが、これがのちに植芝盛平により大本教という新興宗教と一体化することで新しい合気道の流れになっていったとされています。
その後戦争や宗教的な弾圧など数多くの紆余曲折がありましたが、現在においては合気道は大東流とも大本教とも離れ、一つの競技としての位置を得るようになってきています。
そのあたりの流れは本当に複雑に入り組んだものになっていたり、現在も「合気道」を名乗っていつつもかなり内容が異なる教室があるなど確固とした本流があるわけではないのですが、それらを差し引いても現役武術者であった当時の植芝盛平がかなり強かったということは確かな事実として残っています。
植芝盛平と武田惣角
植芝盛平と並んで合気道の開祖的存在となっているのが武田惣角です。
武田惣角は36歳で自宅を失踪し、以来無頼の武術家となった珍しい人物です。
道場を持たず、宗派にも属さず、組織を持たないで武術を会得し伝えていったことからあまり武田惣角という人物については武道の世界では知名度が低くなっています。
一方で植芝盛平は大東流合気柔術の修行中に偶然に大本教という宗教を知ったことから、のちに合気道を単なる武術ではなく「天地人和合の道」として、体術の会得から世界の真理を得るといったような哲学的な方面を多く追求することになっていきました。
この二人の合気道開祖については今もそれぞれ所属する武術宗派によって評価が分かれるところですが、武術のみを組織や宗派そっちのけで追求していったのが武田惣角で、反対に哲学や宗教と融合させることによりそれまでの武術とはまた違ったものにしようとしていったのが植芝盛平ということになります。
なお植芝盛平の言葉に「合気道は宗教にあらずして宗教」というものがありますが、仏教や神道とはまた異なる事件での宗教性を追求していることがわかります。
植芝盛平の強さ
さて植芝盛平の強さですが、いくつもその強さを示す逸話が残っています。
最もものすごい話となっているのが植芝盛平が10人の自衛隊の人間と銃で対決をしたという話です。
植芝盛平が豪語をするので自衛隊員が一斉に射撃をしたところ、植芝に弾は当たらずそれどころか隊員の一人が一瞬にして投げ飛ばされていたというのです。
もう一度と繰り返しても同じようなことがおこり、なぜだと植芝盛平に尋ねたところ「弾がスローモーションに見える」というふうに答えたのだといいます。
他にも若い弟子が押しても引いてもびくともしない鋼鉄の体を持っていたというような話もあり、強さは本物であったことがわかります。