忍者|服部半蔵
実在したとされる伝説の忍者
忍者は日本だけでなく外国人からも大人気の仕事ですが、果たして本当に存在をしていたのかということについては様々な説があります。
しかし中には実在して忍者的な活動をしていたと言われている人物もいます。
それが徳川家康に使えたとされる服部半蔵です。
服部半蔵といえば「忍者ハットリくん」のモデルになったことでも有名な人物ですが、もともとは伊賀国を治めた服部家の一員です。
この服部家は忍者の里として多くの家臣をまとめる存在だったのですが、服部半蔵の父親にあたる服部保長が三河の松平家に仕官したことで大きな転機を迎えることになります。
それまでは忍者の里は完全に歴史の裏側に隠された存在であってのですが、保長が服部家として表舞台で活躍をするようになったことで、服部家は武士としても有名になっていきます。
服部半蔵はもともと忍者としての修行をしていたようですが、父親に従い武士としてのたしなみも学習するようになったことで徳川家康からかなりの信頼を得ていくことになりました。
その後服部半蔵は決死の覚悟で徳川家康の危機を救ったという実績を残し、以降ますます家康は伊賀の里の忍者を重用するようになります。
なお今も東京に残る「半蔵門」という地名も当時家康に召し抱えられて名前を残した服部半蔵が由来とされています。
忍者だったけれども忍術を使っていたわけではない
漫画やゲームではおなじみの登場人物となっている服部半蔵ですが、果たして本当に人間離れをした忍術を駆使して戦っていたかということになるとそれはやはりフィクションだろうと推察されています。
そもそもの話で忍者という仕事自体が漫画などでよくあるように超人的な身体能力を使って忍び込みや戦闘をしたというわけではなく、あくまでもスパイ活動をするための組織として作られたものだったからです。
松平家に使える前にも存在していた伊賀の服部家では忍者を養成してはいましたが、それはスパイをいわば派遣会社のように必要とする各地の大名に送り込むという仕事をしていたもので、どこかの大名に直接仕官して忠誠を誓うということ自体が非常に珍しいことだったのです。
ですので仮に戦闘能力が高かったとしてもそれは傭兵的な強さであり、化けたり空を飛んだりしながら奇襲をしかけるというようなことはありません。
ただし服部半蔵が忍術を使用したという記録自体は残っており、その逸話によると「座った状態で扇を開いて一礼をしたところ姿が消え、隣の部屋に移動していた」というようなものや、「正座をしたまま背後から襲ってきた敵を縛り上げた」というようなことが残っています。
徳川家康を救ったのも戦力ではなく説得術
服部半蔵が歴史上で一気に有名な存在となったのが徳川家康が退却をするときに伊賀の国周辺を通るときの危機を救った時です。
このときよく誤解をされているのが退却時に敵に囲まれた状況を抜けなければいけなかった徳川軍を救ったということで、まるで超人的な忍術を駆使して敵を蹴散らしたかのように伝えられています。
しかし実際には服部半蔵がしたことは敵陣に向いそこで敵を説得して味方につけたということで、どちらかというと忍び込んで相手を味方に取り込むという説得術の方が得意であったということができます。
また服部半蔵の父親である保長は忍術を使えたものの、その息子である服部半蔵はすでに忍者ではなくサムライであったという話もあります。
さまざまな伝説も残っているものの、超人的な忍者であったかということになると眉唾ものの話が多いというのが服部半蔵のようです。
ロマンを壊さないよう、あまり深く追求はしなくてもいいかもしれませんね。