トヨタ2000GT

トヨタ2000GT

壁を乗り越えたトヨタ2000GT

今でこそトヨタ車といえば国内のみならず、海外でも高い人気があります。
トヨタ2000GTは、トヨタ車の中でも特に人気があり名車として今も語り継がれています。

1964年に行われた日本グランプリで、トヨタは不調に終わります。
前年度はクラウン、コロナ、パプリカと全て優勝し力を見せつけましたが、この年はパプリカしか優勝できませんでした。
トヨタの独走を食い止めるべく、各社が体制を整えレースに挑んだ結果でした。

当時のレース監督は、最終目標をルマン24時間耐久レースにしていましたが、世界最高峰のレースに出場するレベルには遠く及びませんでした。
新たに掲げられた目標は、GTレースに参戦できる事だけでなく、普段使いもできるスポーツカーを作る事でした。
順調に開発が進むなか、エンジンという大きな壁が立ちはだかります。
そこで注目されたのが、ヤマハの発動機でした。

トヨタ2000GTの始まり

当時ヤマハは楽器メーカーでしたが、1954年からオートバイの開発を手がけるようになります。
その後スポーツカーの研究を始めますが、ちょうどその頃にトヨタから新しい車のエンジンを開発する話が飛び込みます。
クラウンの6気筒エンジンをベースに、トヨタとヤマハの共同開発が始まり、なんと10ヶ月という短期間で試作車を完成させたのです。
これがトヨタ2000GTの始まりでした。

トヨタ2000GTは東京モーターショーに出品され、かなり注目されました。
こうしてトヨタ2000GTは完成しましたが、次はレースに出るという目標が残っていました。
1966年に開催された日本グランプリから、細かいクラス分けがなくなり、富士スピードウェイを60周するというレースに変わっていました。

市販用のトヨタ2000GTはレースには不利と思われていましたが、見事3位でゴールを決めクオリティの高さをアピールする事に成功しました。
トヨタ2000GTはスプリントよりも耐久レースに向いている事から、2ヶ月後の鈴鹿1,000kmレースではワンツーフィニッシュを決めています。
その後も鈴鹿500kmレースで優勝するなど、トヨタ2000GTの強さを見せつけています。

トヨタ2000GTのベースとなったトヨタスポーツ800

トヨタ2000GTの前に、トヨタスポーツ800が発売されています。
パプリカをベースとしたトヨタスポーツ800は、パワーはありませんが、最高速度時速155kmという、当時ライバルだったホンダ車に10km以上もの差をつけていました。

トヨタスポーツ800は車両の重さが580kgとなっており、車としてはかなり軽量化されたモデルです。
デザインしたのは、戦闘機の設計をしていた長谷川龍雄氏だった事もあり、空気抵抗を減らした結果、砲弾型という形を作り出しました。
丸みを帯びた可愛らしい形から、ヨタハチの愛称で呼ばれていました。
見た目は可愛くともレースでは活躍していました。